信じるということ 前編ーー静かに息づくものたち 

つれづれ
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Opening Song  幹 ハレル夜

 

日本の宗教観ーーあえて八百万信仰(やおよろずしんこう)といおう

神様を信じますか?(笑)

いきなりの質問に、少し戸惑われたかもしれません。

日本では、宗教について語ることが、どこか難しい空気があります。
特に、学校教育では宗教について扱うことはなく、憲法にも、

  • 国家が特定の宗教を優遇すること
  •  国家が宗教活動を行うこと
  •  公務員が職務として宗教的行為をすること

を禁止しております。

近年の教科書の改訂により、ようやく古事記・日本書紀の神話が
教科書に載るようになりました。

神話好きの私には、「いなばの白うさぎ」が教科書に掲載され、
子供向けの古事記の絵本が教科書で新たに紹介されたときは、

「文科省よ、よくぞやってくれました」

と拍手喝采を送るほどの英断的採択に感謝感激でありました。(笑)


古事記は、語り部が伝えてきた神話や伝承をまとめた、
日本最古の物語です。

神々が生まれ、国が生まれ、人が生まれ、
世界がゆっくりと形をととのえていく様子が描かれています。

一方、日本書紀は、もう少し「歴史書」に近い姿をしています。

国としての体裁を整えるために、
神話と歴史をつなぎ合わせながら編まれたものです。

どちらも、
「こうでなければならない」と押しつけるためのものではなく、
ただ、人々が世界を理解しようとしたときに生まれた
ひとつの“語り”にすぎません。

神様は怒ることもあれば、泣くこともあり、
失敗もすれば、やり直すこともある。
完璧ではない神々の姿は、
どこか私たち人間の心に寄り添ってくれるようです。

だから日本では、神話は信仰の中心というより、
「昔から語り継がれてきた物語」として
静かに受け入れられてきました。

それは、宗教というより、
もっとやわらかく、もっと自由で、
「必要なときにそっと手に取る物語」なのだと思います。


だから、日本の神話は、
宗教教育というよりは文化教育としての意味合いが強いのです。

“信じるかどうか”を問うものではなく、
ただ、子どもたちが言葉の世界を広げていくための
ひとつの物語としてそっと差し出されているのです

 

日本の八百万信仰は、
神様を“どこか遠くの高みにいる存在”として仰ぐものではなく、
もっと身近で、もっと静かで、
自然そのものに宿る気配を感じ取る心
のことだと思います。

山の稜線に朝日が差し込むとき、
海が風に揺れて光を返すとき、
雨が土を叩き、浸み込んでいくとき、
木々が静かに息をするように揺れるとき。

その全てに、
「ああ、ここにも何かが生きている」
と感じる、あの微かな感覚。

それは、誰かに教えられた信仰ではなく、
祈りの言葉を覚えたから生まれるものでもなく、
ただ、自然とともに暮らしてきた長い時間の中で
私たちの内側に根づいていった「生命への敬意」のようなものです。

日本人にとって自然は、
征服する対象でも、
ただの風景でもなく、
ともに生きる相手でした。

だからこそ、
山には山の神が、
川には川の神が、
火には火の神が、
風には風の神が宿ると考えたのです。

それは、「神様がいるから自然を大切にする」のではなく、
「自然が生きていると感じるから、そこに神を見いだす」 という、
もっと内側から湧き上がる感性。

だから、八百万信仰とは、
世界のあらゆるものに“いのちの気配”を感じる心であり、
その気配にそっと寄り添うための、
日本人の アニマ(=内なる生命の感性)の表れ
なのだと思います。

それは、
風の音にも、
光の揺らぎにも、
誰かの優しさにも、
ひっそりと息づいている。

日本人の宗教観は、「信じる・信じない」の二択ではなく、

“感じるかどうか”という、もっと静かな世界

に根づいているのです。

幹  電波塔

 

宗教を語らない国で育った私達


日本では、なぜこんなにも宗教教育が繊細な扱いを受けるのか。


それは、私達の歴史の中で

宗教が政治や国家と強く結びついた時代があったからです。

戦前の日本では、 古事記や日本書紀の神話が

“国家の物語”として使用され、
宗教と政治が一体化してしまいました。

その反省から、戦後の日本は
宗教と国家をきっぱり分ける方向へ舵を切ったのです

その結果、学校教育では
「特定の宗教を教えてはいけない」

「宗教的行事を強制してはいけない」
というルールが徹底され、教師も子供達も、

“宗教を語る言葉”を持たないまま大人になっていきました。

だから、宗教について話すとき、 どこかぎこちなさが残るのです。

日本社会全体は宗教に寛容で柔らかいのに、
政治と公務員だけは中立を徹底しなければならない。

これは、
個人の自由を守るために、国家だけが中立でいる
という少し矛盾した、
けれど興味深い考え方ですね。

この考え方は、私達にとって不利益ばかりではありませんでした。

誰かの信仰を侵害しないという位置づけにより、
私達は、
あらゆるものを受け入れる自由な精神を育めるようになったのです。


読み物としての神話

読書好きだった私は、図書室で神話を借りて読むのが好きでした。

ギリシャ神話、エジプト神話、メソポタミア神話、ローマ神話、
北欧神話、ケルト神話、インド神話、ポリネシア神話、マヤ神話、
アステカ神話、トルテカ神話、ミクロネシア神話、日本神話など、様々な神話を読みました。

大人になってからは、ドラマの影響で、中国神話、韓国神話のさわりを知りました。

どれも大変興味深く、素晴らしい世界観でした。
ですが、これはどれも宗教というよりは、
「ファンタジー」というジャンルとして楽しみました。

そして、世界一のベストセラー『聖書』も、
泊まり歩いたホテルで少しずつ読んで読破しましたが、
宗教というくくりでとらえずにファンタジーとして読むと、
スペクタクルでエンターテイメントな読み物であったことは
言うまでもありません。

因みに、日本のホテルの引き出しにそっと置かれた聖書は、
決して誰かに信仰を押しつけるためではなく、
旅先で心が揺れた人が、静かに寄りかかれるように
無償で寄贈され、置かれてきたものだそうです。

日本人はそれを、「信じる」「信じない」の二択ではなく、

“必要な人がそっと手に取ればいい、読むか読まないかは個人の自由”

という距離感で受け入れてきました。

その強制のない静かで柔らかい信仰の形こそが、
日本人の大らかな宗教観でした。

だから、今からするお話は、
私にとっては本当であっても、
あなたにとっては違うかもしれません。

でも、それでいいのです。

神様は、いるのかもしれない。
神様は、いないのかもしれない。

神様は、唯一無二の超越的な存在なのかもしれない。
神様は、自然や日常に普遍的に存在しているかもしれない。

信じるか信じないかの選択は、読む方に委ねます。

 

気のせいと思うにはあまりにも多い不思議1

聴覚優位の私は、音に敏感です。

子どもの頃、家の中のある場所を通ると、
いつも足が止まってしまう場所がありました。

そこでいつも不思議な音を聴くのです。

音というよりは無音の、
けれどもっと何か確実に、
その場で私を立ち止まらせる、
不思議な音なき音が。

子供心に不思議でした。

なぜいつもこの場所に来ると
いつも立ち止まりたい
不思議な気持ちになるのか。
心穏やかに何も感じずに
通り過ぎることができないのか。

後になってから気づきました。

そこは、神棚がある場所の真上だったのです。

この体験から、私は、何となく
神様かどうかはわからないけれど、
何か神聖な、超自然的なものが確かに存在しているのだと
信じるようになりました。

気のせいと思うにはあまりにも多い不思議2

家でひとりで過ごしているとき、
階下からふと “気配” を感じることがありました。

歩くような気配。
誰かがそこにいるような気配。

もちろん、家には誰もいません。

静かな家の中で、 ただその気配だけが、
私の耳と心にそっと触れてくる。

思わず、
「誰かいるの?」
と聞いたことさえありました。

答えはありませんでしたけれど。(笑)

気のせいと思うにはあまりにも多い不思議3

身近な人を見送った翌朝。
家には誰もいませんでした。

家の中にひとりでいると、
突然、屋根の上で大きな衝撃音が
2回響きました。

落ちてくるものもなく、
周囲も静かなまま。

あの音は何だったのか、
今でも説明はできません。

けれど、
「さよなら」を伝えに来てくれたのだと
自然に思えたのです。

後にも先にも、
そんな大きな音を聞いたのは、
一度きりでした。

気のせいと思うにはあまりにも多い不思議4

ある日、私はひとりで家にいました。
静かな時間の中で、ふと、幼い頃の記憶が胸に浮かびました。

よく遊びに行っていた家のこと。
そこで過ごした、あたたかな時間。
優しく迎えてくれた人たちの笑顔。
そして、少しだけ厳しく、けれど深い愛情をもって
私たちを見守ってくれていた大人の姿。

その家の廊下を小走りで駆け抜けたとき、
「廊下は静かに歩くものだよ」 と
穏やかに注意された日のことを思い出していました。

子どもの頃は少し怖かったけれど、
今思えば、それは静かな愛情の形だったのだと
大人になってようやく気づいたのです。

そんなことを思い返しながら、
私はひとり、静かにシャワーを浴びていました。
鍵のかかった小さな空間で、
ただ、懐かしい記憶に浸っていたそのとき。

――ドタドタ、と。

誰もいないはずの場所から、
廊下を走るような足音が響きました。

鍵は閉まっている。
家には私しかいない。

声に出したわけでもないのに、
ただ思い出していただけなのに。

どうして、このタイミングで。

驚きよりも先に、
胸の奥がそっと温かくなるような感覚がありました。

シャワーを止め、
念のため鍵を確かめ、
家の中を見回しても、
やはり誰もいません。

それでも私は、
その足音が何を伝えたかったのか、
静かに理解していました。

――ああ、きっと、あの人だ。

懐かしい気配が、
思い出した瞬間にそっと寄り添ってくれたのだと。

「ちゃんと覚えているよ」

「ありがとう」

そんな言葉にならない想いが、
静かに胸に触れた気がしました。

あれは、 私だけに届いた、
さよならの合図だったのだと思います。

 

気のせいと思うにはあまりにも多い不思議5

大切な人を見送る日、
外で車を待っていると、
玄関先の屋根から突然、水が落ちてきました。

雪もなく、雨も降っていないのに、
澄んだ水が静かに流れ続けていました。

私を濡らすことなく、 ただ隣で落ち続ける水。

その透明な気配は、
まるで “ここにいるよ” と そっと触れてくるようでした。

悲しみの中にある私に、
静かに寄り添うような、
そんな優しい気配でした。

 

幹  greendoor way

※greendoor wayーー新しい道(意訳)

信仰とは、神様とは

こうして、静かで不思議な体験を繰り返した私にとって、
宗教や神話は特別なものというよりは、
生活の一部として常に身近にありました。

それは私だけではありません。 子どもたちの中にも、家族とともに 祈りや信仰が日常の一部になっている子がいました。

ある子は、家族と出かけることを嬉しそうに話してくれました。

どこへ行くのか尋ねると、
「大切な場所に行くんだよ。お参りしてくるの!」
と目を輝かせていました。

帰ってきたときには、
旅の思い出をたくさん聞かせてくれました。

それは、信仰が文化としてやわらかく根づいている
とても素敵な光景でした。

一方で、別の子は、
家の教えを大切にしていて、
特定の場所には足を踏み入れないという選択を
自然に受け入れていました。
学校行事で訪れる場所によっては、
「そこには行かない」と静かに伝えることもありました。

どちらも、
家族の中で大切にされてきた価値観であり、
どちらも、その子にとっての “幸せの形” なのだと思います。

信仰とは、
正しい・正しくないで語るものではありません。

人が救いを求めることは、
昔からずっと変わらない、
とても自然な営みだからです。

そして、救いの形は、
今も昔も、
人の数だけ静かに存在しているのだと思います。

日本における宗教の位置づけ


日本の宗教は、

「どれか1つを信じる」ではなく「複数を自然に受け入れる」

という独特のスタイルがあります。

  • 初詣 → 神道

  • 葬式 → 仏教

  • 結婚式 → キリスト教風

  • 日常 → 無宗教感覚

このように、 生活の中で宗教が“役割ごとに共存”している のが
日本の特徴です。

あらゆるものを否定せず、受け入れる。

それは宗教や信仰というものではなく、宗教的な文化なのです。

「どれか1つを選ぶ」より「状況に応じて使い分ける」

という柔軟な宗教観をもつーーそれが私達日本人だと言えましょう。

そんなことを考えていると、
昔愛読していた成田美名子先生の漫画「エイリアン通りストリート」の中で、
誘拐された主人公シャールが言った、

「宗教は、人を救うものであって、縛るものではない」

という言葉がふと浮かんできます。


私達は、私達の生活を整え、よりよく生きるために宗教を求め、
文明が発達して生活の基盤が整った今でも、
信仰を習慣として受け継ぎ、文化として育てることで、
ひそやかに信じ続けているのです。

そうして長い時間をかけて、宗教、信仰といった言葉は、
もはや”教義”という枠を離れ、
日本人の内側に静かに息づくアニマ(=内なる生命の感性)
のようなものへとゆっくり昇華していきました。

それは、私達の生き方の根源にある、
“何かを畏れ、何かに守られている”
という静かな感覚そのものになっていったのだと思います。

 

救いとはどこにあるのか

救いとは、求めなくても、
すぐそばにあるのだなあと思います。

晴れた日の光に、
淡い月明かりに、
風に揺れる稲穂に、
咲く花の美しい色に、
早朝に響く鳥の歌声に、
絶え間なく流れる川に、
よせてはかえす海の波に。

美しくめぐる四季の中で、私達はいつの間にか、

目に見えるものから見えないものを感じ取る心

を育ててきました。

それは宗教と呼ぶにはあまりにも静かで、
信仰と呼ぶにはあまりにもやわらかく、
ただ、自然とともに生きてきた私達の内側に
そっと根づいた“いのちの感性”のようなものです。

神様は、いるのかもしれない。
神様は、いないのかもしれない。

けれど、風の音や光の揺らぎの中に、
誰かの気配を感じる瞬間がある。

その感覚こそが、 私があえて“八百万信仰”と呼びたい
日本人の宗教観なのだと思います。

そして── そんな静かな世界の中で、
私自身にも、 “気のせい”では片づけられない出来事が
いくつも訪れました。

これは、私にとっては確かに起きたことであり、
あなたにとってはただの物語かもしれません。

でも、それでいいのです。

押し付けられたものではなく、
心が感じるありのままを。

どうぞ、そっと受け止めてください。

 

前編の終わりに


ここまでが、私の宗教観の外側にあるお話です。

けれど── 私が本当に語りたかったのは、
この静かな宗教観の奥で、
私自身に起きた“ひとつの物語”でした。

それは、信じるかどうかではなく、
ただ、私が確かに感じた出来事。

後編では、そのお話をそっと綴っていきます。

 

Ending Song   幹  光

 

 

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