美しい人

つれづれ
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Opening Song    SHINee  In My Room

今も会いたい人

 

冬が嫌いです。

特に寒い2月は。
車で出かけるのも、働くのも回避したいです。

無職になって幸せだったのは、
冬の間中ずっと家にいて出ていかなくてもいいということです。

慢性重度の貧血で、冷え性の私にとって冬は憎むべき大敵です。
いっそ南国に移住したいところですが、
だからといって夏が好きかと言われれば、
はっきり言って嫌いなのでこれも無理。(笑)

夏生まれなのに暑さにも弱い私は、
もうどこに住んでいいのかわからないレベルの
惰弱性を誇っています。

 

寒さの厳しい土地でありながら近年の暑さは殺人レベルです。

懐かしくも小学校時代、先生が、

「今日は珍しく気温が28℃を越えるから気を付けましょう」

と言って私達をざわつかせた記憶が恋しい限りです。

みなさん、わかります?
28℃が危険なレベルだったんですよ!?

 

今はそんな温度は存在しませんよ。(あ、これは言い過ぎw)

 

30℃オーバーで、子供達が氷入りでキンキンの水筒を持って登校し、授業中でも水分補給する北国の夏など、誰が予測し得たでしょう。

温暖化って怖いですね。
夏が暑くなり、その結果雪も多くなるという
わけのわからない現象を雪国にもたらしてくれるのですから。

せめて雪が少なくなってくれるか皆無になれば、
私も地球温暖化に異議を唱えることはなかったでしょう。

常春の国はどこだ!?(笑)

 

幸い、私の今住んでいる地域は雪はあまり積もらないので、
厳しい寒さに耐えるだけなら、部屋に閉じこもり、
エアコンの自動設定でしのげるので、移住して大変良かったです。

これが実家だったなら炎天下地獄に加えて、
雪かきまでオプションとしてついてくるので完全にアウトでした。

もっとも、雪かきで腰痛を発症し、
使い物にならなくなる未来が確実に予見できるので(実証済み)、
何があっても雪かきはしないスタンスです。

私も自分の身がかわいいもので。(笑)

 

 

早く春が来ないかなあと思いつつ。

BONNY PINK      Nagare-Boshi

寒い冬が来ると、この曲とともに、いつも思い出す人がいます。

 

春の日差しのように明るく温かく華やかなのに、
容赦なく凍てつく過酷な冬に力尽き、去っていった人です。

彼女のことを思うと、
いつももう二度と会えないのに、会いたいと思います。

お気に入りのCDをかけ流し、歌いながら車を走らせれば、今も私を嬉しそうに迎えてくれるような気がして。

今も思い出の場所に変わらずいてくれるような気がして。

 

 

十年以上経った今も、私の記憶の中で彼女は美しいままです。

 

 

流離う日々の中で

 

第二次ベビーブームに生まれた私は、
常に大人数の中の一人であり、
日常的に競争の直中に身を置く世代でありました。

常に比べられ、競わされ、選ばれるのを待つ側におり、
平均的で従順な社会の歯車であることを求められていました。

できることが当たり前、みんなと同じにできないものは淘汰される。

当たり前のことなのでそれを疑いもせずに、
できない側にまわらぬように何事も必死にやりました。

学生時代を終えた私は、 当初はまったく別の道に進もうとしていました。 けれど、思うようにいかないことが重なり、 気づけば、生まれ育った場所に戻り、

しかし、その頃の私は、 自分の専門とは少し違う分野で働くことが求められる状況にありました。

こうして私は、 自分の専門とは少し違う場所で働くことになりました。 気づけば、さまざまな土地を流離いながら、 必要とされるところで過ごす日々が続いていったのです。(笑)

 

出会い

短くて1カ月、長くて1年半、
いくつかの学校を巡りながら働いていた私は、
以前も勤めたことのある小さな学校に、
古巣に戻るような気持ちで再び赴くことになりました。

いくつかのメンバーが入れ替わっていましたが、
その中に、彼女がいました。

彼女は、子どもたちの毎日を支える役割を担う先生として、
別の場所からこの土地に来ていました。
家族と離れて暮らしながら、
休みのたびに実家へ帰る、
家族思いの優しい人でした。

すらりと背が高く、
モデルのように整った姿に、
おしゃれで、気遣い上手で、
あたたかい雰囲気をまとっていて、
話してみると意外なほどユーモアにあふれた面白い人でした。

子どもたちの様子を静かに見守りながら 廊下を歩く姿は、
とても颯爽としていました。

同じ時期に働いていたこともあり、
同年代だということも後から知って、
私たちはすぐに打ち解けました。

好きなものもよく似ていて、
特に、私が大好きだった“最初の推し”を
(当時はまだ“推し”という言葉はなかったけれど)
彼女も好きだと知ったときは、
こんなにも近しい人がいるのだと驚いたものでした。

当時の子どもたちはのびのびしていて、
少々スパルタ気味の指導にもついてきてくれました。

小さな学校で、狭い社会で、
互いが家族のように育った子どもたちが、
大きな中学校に行っても戸惑わないようにと、
私たちは持てる技術を総動員して、
できる限りのことをしていました。

最高のものを子どもたちに与えたい。
当時の私は、傲慢にもそう思っていました。

でも現実には、授業には決められた時数があり、
行事も多く、学年で足並みをそろえる必要もあり、
自由にできないことも多かったのです。

だからこそ、小さな学校での授業は、
人数が少ない分、子ども一人ひとりに
丁寧に寄り添えました。

私が教科を教える間、
彼女は子どもたちの生活面を支え、
行事でも常に子どもたちに寄り添っていました。

全校で取り組むことも多く、
私たちは本当に密接に関わっていました。

あの頃は、とても充実していました。

短くも輝く日々

朝学校の駐車場に着いて、
車を降りるたびに見える木々の葉の緑に、幸せを感じたあの日々。

少人数だったがゆえに自由にできた授業。
片っ端から試した新しい指導法。
天井の高いランチルームで家族のように全校みんなで食べた給食。
小人数を補うため保護者も参加し、みんなで楽しんだ運動会。
劇の指導法もここで極め、教える自信をつけた学芸会。
合唱に精通した先生のおかげで歌声に満ち溢れた校舎。
素朴で可愛い子供達。
協力的な地域の方々。
個性的で真摯な先生達。

求めていた理想の教育がありました。

毎日が愛おしく、子供達が可愛くて、
教えがいを感じ、やりがいを感じ、
時が止まればいいとさえ思いました。

色々な学校を転々として、辛いこと、理不尽なことに遭遇して、
この「学校の教員」という仕事に嫌気を感じながらも、
どうせこれしかできないとジレンマを抱えていた私にとって、
それを打ち消す希望が見えた日々でした。

若く、未熟で、熱意のみが先走っていた自分でありましたが、
そんな私に好きにやりなさいと大らかに許してくれた先生方、
そんな私を信じてついてきてくれる子供達が、本当に大好きでした。

任期が来て、その学校を去るときは、子供も私も大号泣でした。

私がその学校を去っても、彼女がその学校を去っても、
付き合いは続きました。

私はその後も学校を巡り、
彼女は、実家から離れた場所で
働くことになりました。

それでも、彼女は土日に実家へ帰って家の手伝いをする中で
何かと私を気遣い、誘ってくれました。

私も喜んで休みには、彼女と一緒に出かけ、美味しいご飯を食べ、様々な催しに参加し、色々な職種の人と交流し、
彼女の実家に泊めてもらい、ゆっくりお風呂に入り、
サウナと水風呂の気持ちよさを初めて知りました。

彼女は引きこもりで隠れオタクな私に、
いつも新しい世界を見せてくれる人でした。

彼女と行った場所。
彼女と行った店。
彼女としたこと。

全てが新鮮で、楽しく、救いでした。

吹雪でホワイトアウトな帰り道も、気力で乗り切りました。

お互いが一番幸せを感じて仕事ができた時期に出会い、
以来十年という時間、離れた場所に住んでいても、
私達は友情を育みました。

理想と現実の間で、私達は何度も何度も壁にぶつかり、
理想に到達できぬうれいを昇華するすべ模索もさくしました。

思うように生きられない現実を憂う中で、
私達は極力楽しいことだけに重きをおきました。

美味しいものを食べ、美しいものを観て、
美しい音を聞き、楽しいことをしました。

彼女と行ったお店や場所、ものは、ハズレがありませんでした。

すでに名前を忘れてしまったお店やイベントも多々ありますが、
本当に、とてもたくさんの場所に、彼女は私を誘ってくれました。

たくさんのことを、体験させてくれました。

自分を取り巻く現状に常に満たされないものを感じていて、
私達は互いに、それを埋めるためにいろいろなことをしたのです。

それがお互いを癒す行為でした。

 

理想と現実

交流も広く様々なことに挑戦する彼女は憧れでありましたが、
同時に、彼女の中には、私が抱えてきたものと同様の
『負の部分』が垣間見えました。

微妙に似通いながらも、決して重ならなかったもの。

それはーー家庭環境、人間関係、仕事に対する理想と現実、
現状への失望、女としての不自由と束縛と抑圧された怒りと
依存できぬ孤独、常に感じる足元の不安定さでした。

そして、私達二人の内に共通してあった思い。
互いに愚痴を言い合いながらも、決して核心に触れなかった痛み。

家族も誰も私達には与えてくれないのだと。
誰かに助けを求めても無駄なのだと。
自分一人で抱える痛みなのだと。

私達を蝕む、
目に見えぬ諸々もろもろの不安を意識しないように、打ち消すように、
私達は生き急ぎました。

彼女は私を含めたくさんの人の世話を焼き、
あらゆる人の憂いを和らげようと努力する人でした。
そして、自分の体調に人一倍敏感で、
いつも健康に気を遣っている人でした。

ケアを担う立場であったことや、
生まれつきの“しっかり者”の気質が、
後に彼女を追いこんでいきました。

全てを背負い込み、全力で救おうとする姿勢は、
彼女の妄信していた病を発症してからも続きました。

自分を犠牲にすればきっと救えると思っていたのか。
人を救えない自分には価値がないと思っていたのか。

とにかく彼女は誰の相談にも乗り、
あらゆることに尽力していました。

最後の年末に近いある夜に電話が来た時には、
自分の体調も良くないのに職場の先生の愚痴に付き合い、
晩御飯も食べずに、自身も頭痛と怠さを堪えながら、
同僚の憂いを晴らせぬ自分の無力さを嘆いていました。

そんなことより、あなたが休みなさい!

全ての人を救うことなどできないのだと、
彼女に言いたかった。
私にとってどうでもいいそんな人よりも、
彼女自身を救ってほしかった。

長い電話を切り終えて、もんもんとしながら、
私は彼女の体調が少しでも良くなるように祈っていました。

その時点で、心のどこかではわかっていたのです。

彼女は、きっともう、だめなんだと。

それでも、心の大部分は否定していました。

彼女の「大丈夫」という言葉を信じたかった。

信じていれば、それが本当になるような気がしていました。

彼女は優しい嘘をつき続けて。
私は気づかない振りを続けて。

やがて来る現実から逃げ続けました。

逃げ切れるはずもないのに。

 

その日はあっさりとやってきました。

 

あんなに突然に別れが来るなら。
もう二度と会えなくなるなら。

もっと話をすればよかった。

彼女がどうしたかったか。
私が、どうしたかったか。

他人の話じゃない。

彼女の話を、
私の話を、
するべきだったのに。

生きたいと願った彼女が死んで。
死にたいと願った私が残されたーー

 

長い闘病の末に旅立った彼女の葬儀で、
友人代表として言葉を求められた私は、
最後の別れの言葉を語りながら、
心の中でこの世の理不尽さを呪いました。

また一人になった。
大切な人がまた、先に逝ってしまった。

 

彼女がいなくなっても、日常は当たり前に続きました。

彼女を悼む暇すら与えられず、
次の日には出勤しなくてはなりませんでした。

子供達にいつも通りに接しなければならず、
何も変わりない生活をしなければなりませんでした。

朝の会で子供達と歌う卒業式の歌の友への歌詞に、
誰にも気づかれないように静かに泣くしかできませんでした。

虚しい日々が続く中、一時は教師であることすら苦痛でした。

学校で彼女とどこか雰囲気の似た先生に会うと、
彼女のことを思い出したから。
子供といてふとした既視感に囚われるたびに、
彼女と一緒だった日々も思い出したから。

 

そして私は、彼女との思い出の場所に行かなくなりました。
彼女との思い出の場所から敢えて遠ざかることで、
彼女としたことの大部分を断ち切って、
『ハマったら抜け出せなくなりそうだから』と
彼女が唯一足を踏み入れなかったKーPOPな『推し活』に
没頭することにしました。

SHINee  누난 너무 예뻐 Replay

※韓国語題 누난 너무 예뻐(お姉さんはとても綺麗)

推し活に力をもらい、
彼女としなかったことに一人で挑戦することで、
徐々に私は自分を立て直しました。

音楽の力は偉大です。
国境も不和も越えて、人を癒してくれるのですから。

引きこもりだった私がたった一人で、
日本全国ーー時には海外まで、どこにでもライブに行くし、
行った先で誰とでも仲良く交流できるようになるとは、
今でも驚きです。

 

言いたかったこと

彼女は生前、私に極力死の影を見せませんでした。

病気の経過を細かに教えてくれてはいたけれど、
いつも彼女は大丈夫だと明るく元気にふるまっていました。

何も変わらず、私と彼女のいつもどおりに。
今にして思えば、不自然なほど。

 

彼女を通じて知り合った、今は良き友人である、
あるセラピーの専門家の方のいうことには、

話したらきっと、私が泣くだろうから。

彼女が亡くなってしばらくしてから、それを聞きました。

最後まで私を気遣う彼女に、今も胸が痛みます。

 

 

結局今も泣いてるよ。
泣かないわけないじゃん。

今も会いたいし、
一緒に夜通し話したいよ。

いろんなことしたよね。
たくさん挑戦したよね。

でも、全然足りなかった。
できること、もっとあったよ。

 

私達の学校は、
今はもうないんだよ。

閉校しても、
行けなくて。

本当は、
一緒に行きたかった。

ありがとう、
さよならって、
大好きだった校舎に、
笑ってお別れしたかった。

実はあの後、用を済ますついでに、
一人でこっそり行ってみたよ。

駐車場から見る緑の葉っぱは
あの時と変わらないのに。

ランチルームの椅子は
倒れて転がってた。

体育館の玄関は、
見慣れない掲示物が
剥がれかかってた。

美しかった記憶との
ギャップに泣けたよ。

きっともう二度と
行かないな。

私の美しい思い出は、
心の中にあるからさ。

 

もう十年も経ったよ。
幸せにやってるよ。

子供を産んでみたかったって
言ってたよね。

代わりに産んでみようかとも
思ったけど。

ごめん、
私も無理だった。(笑)

それでも、
楽しいし充実してる。

私達の「ありのまま」は
あの頃は理解されなかったけど。

全然平気だった。
全然大丈夫だったよ。

今なら、
話聞けるのに。

もっとうまく、
生きられるのに。

何でそんなに
生き急いだかな。

一人でさ。

悔しいよ。
ホント。

 

後悔

 

最後の冬、年明けに、彼女はメールをくれました。
タイトルは『本気のお誘い』。
2月の中旬あたりの週末、一番吹雪くであろう時期に、
お笑いか何かのイベントの誘いでした。

彼女の実家でなく、さらに離れた場所でのイベント。

それまでもそちらに行っていましたが、
それは雪の降らない時期でした。

そちらに至るまでの雪道運転の過酷さ。
月曜日も通常勤務。
行ったことのない雪道で、
夜中のホワイトアウトを乗り切る自信も気力もありませんでした。

そしてなにより、彼女の「本気」というタイトル。

彼女は何かを話すつもりなのではないのか。

私が聞きたくないことを。

そう感じました。

私は2つのことを理由に、丁寧に断りの返信をしました。

暖かくなってから行こうと。

その後、2月に入ってすぐ、彼女は実家での療養中、
激しい頭痛に襲われ入院。

彼女の家族の方から連絡があり、
仕事を終えて、当時元気だった父親に運転してもらい病院へ。

その時には、すでに意識はなく、
ただ横たわるだけの彼女と再会しました。

最後に彼女と話すこともできず、
父と私は病室を後にし、家に帰りました。

そして、数日後、またの連絡。

私は彼女の「本気」を知る機会を、永遠に失いました。

 

願い

 

結局、
私も彼女も2月のイベントには行くことはできなかったけれど。

もし私達が会えていたら。

彼女は私に何を伝えるつもりだったのだろう。
それを聞いて私はどんな言葉を返しただろう。

今も時々考えます。

 

死後、行く場所があるのなら。
もし、魂が不滅であるのなら。

もう永遠にわからない言葉を、
私はいつか聞くことができるのだろうか。

そんな期待を抱いています。

 

私が愛した人達が逝っただろう場所に。
生き切ったその先に、私がやがて逝くだろう場所で。

私を待っていてほしい。
いつか、私がそこに行く日まで。

そして今度こそ話をしよう。

あなたの話を。
私の話を。

言えなかったこと。
言いたかったこと。

何も隠さずに。
躊躇ためらわずに。

私も、全部聞くよ。
泣いてもいいから
言ってくれ。

 

遠い道のりどころか
天国と浄土という宗教の次元すら超えて。

しわしわで、おばあちゃんになった私が。
美しいままのあなたのところまで。

きっと行くから。
その時はどうか。

頑張ったねと、
迎えてほしい。

 

Ending Song     BONNY PINK      Machi No Namae

※MachiーーHeaven(意訳)

 

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